読み下し
曰わく、君子重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。
ひろみ現代語訳
孔子は言った。「道を目指す人は、常に言動を慎重にしなければならない。そうでなければ、人に侮られてしまう。信念を持って行動し、自分より知徳の劣った人間を友人としてはいけない。また誰しも人間だから、過失はある。大事なのは、見栄や面子にこだわらず、その過失を即座に改めることだ。」
ひろみ解釈・まとめ
*自分より知徳の劣った人間を友人としてはいけない
強烈な言葉が出ました。相互に比べたとき、自分より優れた人を友人にしなさい、といっているのですが、これでは相手は自分を友としてくれない。そんなふうに思いませんか?しかし、一人の人間を様々な観点から見ていくと、「すべてが勝っている」「すべてが劣っている」ということはありません。これはつまり、部分部分でその人の良いところをみていけばいいということ。長所を伸ばすってことなんですね!
*見栄や面子にこだわらず、過失を即座に改める
「過失」は大きく分けると2種類あります。『知らないで犯してしまう過ち』と『悪いと知って犯してしまう過ち』です。これ、どちらが悪いと思いますか??
これについて、論語について詳しく書かれているWEBサイトに「なるほど!」という解説があったので、そのまま引用します。
刑法では、知って犯す過ちを故意と云って、知らずに犯す過ちつまり、過失よりも重いとされておりますが、人間真理から眺めて見た場合、果たしてどうですか?勿論故意であろうが 過失であろうが、過ちは過ちですから、どちらも悪いことには違いありませんが、さてどっちが罪深いか?となったら、どうですか!?
答えはもうはっきりとしているんですね、知らずに犯す過ちの方が断然重いと。釈迦は弟子 から同様の質問を受けた際、はっきりと答えております、「知らずに犯したる罪は、知って犯したる罪に百倍す!」と。さあどうですか?そうだ!という顔をしている人が半分、どうして?と いう顔をしている人が半分いますかね。
知らずに犯す過ちというのは、それが過ちであることすら分からない、つまり、善悪の道理が 分からない訳ですから、反省することができません。反省することができなければ、改めて みようがありません。本人は少しも悪いと気付いていないのですから、改めようなどという気が起きないのですね。かくして本人は気付かぬまま、日々周囲に悪臭を撒き散らすことと相なる訳ですが、周りは大迷惑します
引用:学而第一 008
過ちを改める前に「過ちを過ちを気づけるステップ1」が存在しています。自分の悪いところは、自分ではわからないものかもしれません。これを読んで、私の悪いところを指摘してくれる友人の存在はとてもかけがえのないものだなって思いました。
**以下の文献・WEBを読み、私なりの「現代語訳」と「解釈・まとめ」を載せています。結構内容変わっているなあ〜、と自分ですでに思っています。学説的に間違っているかもしれませんが、以上が私の論語の学びからのアウトプットです。
参考文献・WEB
*【現代訳】論語 下村湖人 PHP研究所
*論語解説 http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/s-00-000.htm